北川悦吏子ドラマ「運命に、似た恋」

最近、「運命に、似た恋」がNHKで放送されていたけど、私はそれをニヤニヤしながら見てた。

 

運命に、似た恋 (文春文庫)

運命に、似た恋 (文春文庫)

それは、斎藤工がかっこいいとかそういうトキメキのようなものではなくて、「北川悦吏子のドラマだなぁ」と思ってニヤニヤしてしまっていた。私は昔から北川悦吏子ドラマが大好きで、シナリオ本もほとんど全部何度も読んだ。その時、ふと気がついた。

 

「このドラマのヒロインになりたい」

 

そう思っていたことに。それこそが北川ドラマの醍醐味だった。ここで注目したいのは、ヒロインそのものになりたいわけではないこと。そのポジションに自分が入れ替わりたいということだ。卑屈っぽくてイジイジと悩んでいる自信なさげなヒロインたちは、憧れの対象ではない。あくまでそのボジションに「憧れ、恋し、願う」こと。視聴者が、北川ドラマの世界観に憧れ、自らをヒロインに投影し、そして恋をする。そうすることで、「私もこうなりたい」という感情が自分の中に湧き出てくる。

ビューティフルライフ」を観た時、図書館司書に憧れ、青山の美容師に恋をした。

オレンジデイズ」を観た時、大学にさえ入れれば、男女混合グループに属して海に花火にとイベント三昧の大学生活を送るものだと楽しみにしていた。

だけどそれはドラマだけの世界であり、私は図書館司書にはなってないし、青山の美容師に髪を切ってもらってはいるが彼とどうこうなるはずもなく連絡先も知らない。大学では少人数の女子グループでダラダラ遊んでいた。これが現実である。だけど、また私は北川ドラマで夢を見ることになる。トレンディドラマの最後に登場した脚本家なだけに、その名残はやはり残っている。「キラキラ」している、といった方がわかりやすいか。

『女の子が、恋をすることで自信が出て、キラキラする。』

これが北川ドラマそのものだ。では北川ドラマの恋ってなんだろう。そのことについてまとめてみることにした。

 

①彼(彼女)とは住むせかいが違う

「運命に、似た恋」を見て、感じたのは主人公はいくつになっても女の子であるということだ。富裕層向けの配達クリーニング屋で生計を立てるシングルマザー桜井香澄は高校生の息子がいる。そしておまけに若い女性と再婚したにも関わらず、お金を貪りに来る別れた旦那まで。香澄には、幼い頃であった運命の人がいる。名前はアムロ。もちろん偽名だが、香澄は彼と再会を果たすべく、母の遺品であるバレッタを渡していた。

 

「信号は黄色で、それが私の人生。どっちつかずでパッとしなくて。」

パッとしない香澄は、あくせく働き続ける。そしてユーリと出会う。彼は超一流デザイナーでしかもイケメン。そして彼に何度も「運命の人」とか「お姫様」とか言われ、求愛されることになる。

「あなた、僕の運命の人なんで」

だけど、香澄はなかなか振り向かない。もちろんユーリはかっこいいし、幸せこの上ない。だけど振り向かないのは、「彼と住む世界が違う」から。

「私がもっと若くて、もっと綺麗だったら、君に届いたかな?そういうことでもないな。世界が違うもんな」 

これこそ北川ドラマのキーワードだ。北川ドラマで恋をする男女が悩むところ。「私は(僕は)、彼(彼女)と住む世界が違う」から、恋をするのが臆病になる。

 

このストーリーだけ聞くと、いい年したおばさんが何やってんだよと思う人もいると思うが、それでいい。だってこの人は「女の子」だから。恋をすれば、女はいくつになっても「女の子」になることができるのだ。

私は、今回小説版を読んでからドラマを見た。順番が全く真逆にも感じるが、それでよかったと思えた。北川ドラマは、続きを気にして見たくないからだ。私は、このドラマを味わいたいんじゃなくて、「北川ドラマ」を味わいたいから。

 

②「そんな気持ち」になる。

 そして、ここである。

「君といると私、みすぼらしい気持ちになる。同じような人といれば、そんな気持ちにならなくて済む」

これは香澄の4話でのセリフだが、どこかで聞き覚えがある…

ビューティフルライフ」の杏子が言っていたのと同じようなセリフだ。杏子は、自分が車椅子であることにコンプレックスを抱いていた。まして、相手は誰もが憧れる青山のカリスマ(しかもイケメン)。杏子は、自分と同じ車椅子の男の人を選びそうになる。それは、「そんな気持ち」を味わいたくないからだ。

そして、 ここでいう、「そんな気持ち」こそ北川悦吏子の描く「恋」そのものだ。

 

「住む世界が違う人」を好きになり、相手と自分との違いを感じて、「そんな気持ち」を味わう。これが北川悦吏子の描く「恋」なのである。

 ラストシーンの、キラキラ輝く海を寄り添って見ている二人を見て、これが「恋」だと思った。愛ではなく、恋だった。

女の子はいつまでも少女であり、 好きになった人は誰だって王子様のようにかっこいい。みすぼらしい少女は、恋をすることで誰でもシンデレラのようなお姫様になる。

ドラマの中でユーリが香澄にこう言い放った。

「俺、クリスマスのイルミネーションじゃないんだけど。

あなたが、夢見るための道具じゃないんだけど」

 

だけど私は思う。女の子がお姫様になれるのは、素敵な王子様がいるからだ。ユーリは香澄のクリスマスのイルミネーション。彼からしてみれば、たまったもんじゃないかもしれないが、女の子にとってはそれでいいのかもしれない。

 

最近は、恋愛ドラマが敬遠されがちだが、北川ドラマを見て久しぶりにこの感覚を思い出した。別に恥ずかしくなったっていいじゃん。ロマンチックで寒くなったっていいじゃん。

夢見てイタい自分になるような、テレビドラマがなくなってしまうのは、なんだか少し寂しい気がする。

 

ずっと少女を描き続けて欲しい。恋愛ドラマの神様として。