複雑で面倒で鬱陶しい大人はグレー ーカルテットー
レモンをかけるっていうことは不可逆的な行為だ。
レモンがついているから、かける。
私たちは、唐揚げにレモンをかけるのが当たり前という空気で過ごしているけど、
当たり前なことにレモンを嫌いな人はいるし、
かけるのを拒む人だっている。
だけど、「レモンありますね」と言ってくれればやんわり「レモンありますよ」って返すことができる。
そして小皿に自分の分を取り分けて、そのレモンをかければいい。
言ってることはわかるんだけど、なんかまわりくどくて理屈っぽい。
そんなのレモンかける前に「レモンかけないで」って言えばいいし、
かけちゃったら我慢するか、最悪は食べなきゃいい。
唐揚げは洗えないんだから。
いい大人が、そんな小さいことでぐちぐち論争するな。
そう思う人は「カルテット」を1話でやめると思う。
だってセリフはわかりづらいし、
唐揚げのレモンの話は今だにしてるし。
みんな理屈っぽくて何考えてるのかわからないし。
だけどそんなセリフを楽しめる人間にとって、このドラマは最高かもしれない。
例えば2話でこんなことを言っていた。
連絡しますねっていうのは、連絡しないでねって意味でしょ。
確かに、連絡先を交換するときに、
先に連絡先を教えてもらっておいて「連絡しますね」という場合、
大抵しない。
しかも相手には自分の連絡先を教えてないから、相手はじっと待つしかできない。
「行けたら行く」も「行かない」と同じ。
なんかこんなことを「ごめんね!青春」*1でも言っていたような気がするけど、伝え方がかなり真逆。
「ごめんね!青春」では、ダイレクトにアツく教えてくれる。
「言ったじゃないか!!」って叫んでいるように感情的に、わかりやすく生徒に教えを説いている。
でも「カルテット」はどこか冷めてる。
皆冷めているうえに、どこか人生に諦めているようにも見える。
それはやっぱり彼らがいい年齢の「大人」だからだろう。
大人は嘘をつくし、まわりくどくて、理屈っぽく、複雑だ。
女の子は可愛く「今夜泊めて」って言えるかもしれない。
でも大人は終電を言い訳にしないとそうなれない。
終電は男女が一線を超える言い訳のためにある
こんなセリフもあったように、
大人はとても面倒で、言い訳がないと行動できない。
そのくせ生きてきただけのプライドと見栄があるから、
プライドを捨てるようなことはできない。
志のある三流は四流だからね
三流だとわかっていても、ここまで生きて大人になってきた彼らは変われない。
汚い仕事はできないし、人よりいい仕事ができるとまだ信じてる。
夢を忘れないことは悪いことではないけれど、彼らは諦め方がわからない。
からあげのレモンもそうだけど、
今更レモンをかける側の人間は、かけない人間にはなれない。
そして白黒はっきりさせる勇気もない。
ずっとグレーでいることを好む。そんな大人の生き方。
白黒はっきりさせちゃ裏返る。答えが出てしまう。
はっきりさせられたら、彼らはこのままでは生きられない。
だからこそ、ずっとこのままグレーを保ってる。
「大人なのに」と言われないために、
わざとわかりにくい言葉を使って、なんでもわかっているような顔をして、平然を装って生きている。
毎日が不安で寂しくて仕方なくても、そんなことを言ったりしない。
すごく面倒くさくて、うっとおしい彼らだけど、
でも私はすごく愛おしくも思える。
決してこんな大人になりたいなんて思わないし、
旦那の靴下を愛する妻にもなりたくない。
だけど、彼らを毎週見ていたいと思えるのは、
「大人」という生き物がとてもかわいそうで、切なすぎるからだ。
そして自分も大人なんだという現実を感じ、ゾッとする。
そんなゾッとする感覚を味わいながら、「タラレバ」を見ると、
撃ちこまれる銃弾の重さが全然違うことに驚く。
「痛い」ドラマー「東京タラレバ娘」ー
平成が終わろうとしている。
「平成生まれなんです」
私はこのワードを武器にしてきた。
平成生まれなんだと言うと、「平成生まれがきちゃったよ」と言われ驚かれた。
その度に、自分は若いんだなぁ…なんて思っていた。
そしていつからか私にとってこのワードは、かなり大切なお守りになっていた。
私は平成元年生まれ。つまり、昭和と隣り合わせにいる。
1年遅けりゃ、昭和生まれだ。
昔はそんなの関係ないじゃんなんて思ってたけど、今はこの1年は大きいなと思える。
だって平成生まれなんですっていうと、まだ若いような気がするから。
そしてそんなしょうもないことにしがみついている「痛い」自分もいる。
自分が「女の子」でいられる猶予はいつまでなんだろう。
誰だって少しでもまだ「女の子」でいたい。
転んだら手を差し伸べて欲しい。
だから平成生まれにしがみついているのかもしれない。
もうそんなに若くないのに。
私は原作マンガを読んで、思ったのは「面白い」ではなく「胸が痛い」という感情だった。
楳図かずおのホラーよりホラーだ。
スプラッターで首が切られることより、
ひとりで死んでいくのかもしれないという身に迫る感覚と、
このまま女子会ばかりしていいのかという気持ちの方が怖い。
「変な旦那捕まえた」と笑い、
そして「婚活パーティーなんて行くほど落ちぶれてない」と馬鹿にしていた。
なんだかその様子はとてもリアルで、自分もそうなのかと思い知らされた。
でもこのドラマからは、その痛さがそこまで伝わってこない。
『独身、彼氏なし、仕事もイマイチなアラサーです…!
でも東京オリンピックまでに彼氏つくるぞ!』
的な、昔で言う「負け犬」女子奮闘記に思えた。
なんかそれって安っぽい。そしてなんかそれって楽しそう。
そこでイケメンが手を差し伸べてくれて、(しかも年下)
きっとラブラブになって、(そして円満破局的なことになって)
仕事もなんだかんだうまくいくんでしょ?
それって全然「痛く」ない。『anego』とか『きみはペット』みたいな、そんな楽しい話になっていいのかな。
マンガで、東村アキコさんが「タラレバ娘たちへの叱り」だとおっしゃっていたように、これは我々への「おしかり」なんです。
気がつけばいいんです。
タラレバ言ってる自分に、そして女の子ではない自分に。
気がついて傷ついて、そして悲しめばいいのです。
立ち上がれるかわからないけど、一緒にこの悲惨な状況を共有する、そんなドラマがあったっていい気がする。
威張ってベンチに座って、ユニフォームは着用して出る気は満々。
だけどいざバッターボックスに立ったら何もできない。
挙句の果てに戦力外通告。
でもそのあとにバッティングセンターに行って、球があたってよかったな、なんて話の展開は、ちょっと嫌だった。
そこは肩落として寒空の下、ひとりで帰るか、
賑わってる街の中で孤独を感じながら帰って欲しい!!!
あと変なCGもなくていい、話もセリフも面白いんだから。
ドラマで、きちんとゴールを見せてあげるっていうのは鉄則かもしれない。
でも私は、「痛み」をシェアして皆で痛い痛いって言い合う、
そんなドラマもありなんじゃないかなって思う。
ムズキュンについて考えるー「逃げるが恥だが役に立つ」ー
”ムズキュン”って一体なんなんだろう。
「逃げ恥」が”ムズキュン”ドラマとして話題になってるけど、そもそもそれってなんなんだろう。
くっつくかくっつかないかわからない(ムズムズ)
ハグの日を決めてハグしちゃう(キュンキュン)
彼氏と彼女にはなったけど…ここからどう進めばいいのかわからない(ムズムズ)
でもお互い好きなんだよね(キュンキュン)
この連続がムズキュンなんだろうか。胸キュンではなく、ムズキュン。でも恋愛ドラマって基本的にムズキュンなんじゃないんだろうか。後輩がそう言っていて、確かにそうだなと思った。
今までの恋愛ドラマは、
出会い→衝突→成就→元カノ出現→破綻→やっぱり成就
この形式に当てはまる。そしてそれは「男女が付き合ってうまく行くさま」を描いているんですよね。だけど最近の恋愛ドラマは、出会って成就するまでがすごく早い。というか、もはや最初から出会っていて付き合っているケースまである。出会いに運命や憧れを抱かないようになっているのかもしれません。
「逃げ恥」を例にあげると、そもそも出会いは形式上のものであり、恋愛始めますと断言してから結婚している。そうしたことで、「結婚しているのに恋愛が始まらない!」展開がうまれる。愛情は生まれているけれど、恋愛はできない感覚。出会う方法はたくさんあっても、恋が始まらない。というか始める方法がわからない、そのムズムズ感が楽しいのかもしれません。でもそれも今まであったやり方ですよね。じゃあなんでこのドラマは”ムズキュン”なのか、そして「恋」ってなんだろう。
2人は「ありがとうございます」をきちんと言い合い、そして相手を気遣う場面も多くみられます。そして愛情を示す方法として、ハグを盛り込み、きちんと相手に愛情を提示している。このように相手に対して、わかりやすく感謝と敬意を示すのは、雇用関係があるからこそ。だからこそ二人の関係性は成り立っていた。でもそれが義務ではなくなり、”任意”のものになった途端におろそかになったり不満が生まれたりして難しくなってしまいます。お互いに「恋」が芽生え始めた途端、彼らの関係性はギクシャクしはじめるように。
8話で、みくりのお母さんがこんなことを言っていました。
みくり母「運命の相手に、するの。
— ドラマ子 (@tvdraran) 2016年11月29日
意思がなきゃ続かないのは、仕事も家庭も同じじゃないかな」#逃げるは恥だが役に立つ #8話
無償の愛を捧げているように見えても、それは妻の努力。そして今そばにいる相手を自分の運命の相手として認識するということ、それもまた努力。そしてそうした悩みや努力が「恋愛する」ってことなのかもしれません。
また、6話で山さんがこんなことを言ってましたが…、
山さん「自分が相手にかけた愛情と同等の愛情が返ってこないと、人は不安になる。愛情がもらえなくても、同等の見返りがあれば納得できることもある。お金だとか、生活の安定だとか。
— ドラマ子 (@tvdraran) 2016年11月16日
→#逃げるは恥だが役に立つ #6話
この不安な気持ち、それこそ恋ですよね。想いが強いほど、その不安に押しつぶされそうになって関係は終焉してしまう。だから雇用関係を結んでしまえば、その不安は解消される。恋人も夫婦も関係は良好、その方が効率もよくて円滑に回る。刺激より平穏。でもそれって恋なのでしょうか。
昔の恋愛ドラマを参照してみると、「相手に恋している」という感覚は、「この気持ちってなんなんだろう…わかった…恋してるんだ!」ってヒロインや相手が勝手に勘付いていたんです。自分でこれが恋なのだとわかっていた。ananの今月号で「恋の処方箋」というテーマが掲げられていたように、もうそんな時代じゃない。
そして9話のみくりのこのセリフ。
みくりM「曖昧だから成り立つ幸せは、曖昧な幸せ。システムで作られた関係は、システムから逃れられない」#逃げるは恥だが役に立つ #逃げ恥 #9話
男女の関係をシステム化したり雇用関係を結ぶことは、恋愛することの大きな障壁にすぎない。結局きちんと段階を踏んでお互いに恋愛をしなければいけないんですよね。
これは恋の仕方がわからない、みくりや平匡が、「恋愛をするということは、忘れられがちだけどとても大切なこと」だと気がつくドラマ。だから、こういうのが恋なんだよって教えてあげてることが大事。そのために単純に自分の気持ちが恋だと気づけないようすを描く。そして最初に契約を結んでいる彼らは「恋」という気持ちについて深く繊細に考えているんだなぁなんて思います。
「恋をすること」がわからない二人が繰り広げる恋の細分化描写があるからこそ、このドラマは”胸キュン”ではなく”ムズキュン”なのかもしれません。
「黒い十人の女」ー戦う女の可愛らしさー
他人のプライベートを覗き見することは楽しいかもしれない。
自分じゃないから、楽しめる。そして、その戦いをお茶を飲みながら笑って見ている、それが女なのかもしれない。
人が深みにはまって抜け出せなくなってる様子だったり、ドロドロしてるのって気になるし見たくなるよね?結局何よりそれが一番美味しいコーヒーのお菓子になるんでしょ?って言われているような気分になるドラマ、「黒い十人の女」が最終回を迎えましたが、私はかなりこのドラマが好きでした。
なぜ私はこのドラマに惹かれたのか…それは3つある。
⒈不倫相手に魅力が全くない!
今まで不倫ドラマはたくさんあったけど、なんだかどれもすごく素敵な恋愛ドラマに描かれていた。愛し合っているのに…、出会う順番を間違えてしまって…、なんかそういうセリフがついてくる。そして、逃避行するか別れるか奥さんに刺される…。そして美男美女だった。今回の不倫相手はドラマの中でも「この男のどこがいいんだか」と言っているくらい、普通の中年、そして浮気性。9人の浮気相手と1人の妻をもつ、馬鹿な男である。だけど、なぜか不倫してしまう。なぜかすごく惹かれる男。なんか切れない、なんか惹かれる、そういうポイントがあるおじさん。そこがとてもリアルで、そして面白いポイントでもあった。
⒉「クソ」「ババア」「ブス」のオンパレード
お分かりの通り、女たちが争い始めるなら、口は悪くなるのは当然だ。『ファーストクラス』のマウンティング女子じゃん!!ってくらいに、お互いを罵り始める。「ファーストクラス」では、外面は笑顔なのに心の声はぐしゃぐしゃだったのが印象的。だけどこのドラマでは、本人に思い切り罵詈雑言をぶつけている。そしてカフェラテまで何杯も顔にかけつづける。
そしてなんどもこう言う。「クソ」「ババア」「ブス」。女の子はいつでも可愛いなんて妄想だ。自分より1つでも年上なら「ババア」といえば相手に刺さるし、少しでも自分が可愛ければ「ブス」という。そして誰彼構わず使う「クソ」。だけど違和感がないのはどうしてだろう。だって女の子はよくこのワードを使うからだ。バカリズムがここまで女子をわかっているとは驚いた。そして現代の女子のありのままの姿がそこにあるとも感じた。
だけど彼女たちを憎めないのはどうしてだろう。
それは、カフェラテをかけたり、罵ったり、そんなことをする権利が彼女たちにはないからかもしれない。だって彼女も愛人だから。自分も愛人なのにも関わらず、他の愛人を見て貶し続けることで、主観と客観の両方を味わえるのも新鮮だった。最終回で、奥様に正論をぶちまけられ、凹む彼女たちもとてもおかしく、そして可愛らしくも思えた。
⒊LINEの使い方がうまい
LINEは最近ドラマでもよく使われています。だけど毎回演者に無駄にアテレコさせたりするのがすごく違和感があった。それに少しLINEではなく、ただのメールのようにも感じたし、ちょっとずれてる感じがあった。だけど、このドラマでLINEをしている時に余計な音はなにもない。すごく静かで、スタンプの使い方もすごくリアル。
「イタリア人みたいだね」と言われたときに送るピザのスタンプや、何度か間違うスタンプ攻撃やスタンプだけの会話。私がよくやるLINEとすごくにていて、友達のLINEを覗き見ているかのような感覚を味わえた。そのLINEを見ているだけでとても楽しかった。そしてその感覚こそ、このドラマでいう「げすい」女の感覚なのかもしれない。
そして最後に、「不倫を卒業、不倫を留年」という響きがすごくよかった。不倫は誰でも始められることなのかもしれない。だけど一番難しいのは卒業。卒業することができないために、ずっと留年し続ける道を選んでしまう。
不倫とは、客観的に見ている分には生ぬるくてしょーもないものだが主観的に見ると「戦争」なのだとドラマで言っていた。好きで不倫をしているわけじゃない、独り占めしたいと思っているのが本音で、そうするには戦わなければならないのだ。
女同士の戦いは、見ている分には一番面白いものなのかもしれない。だけど、彼女たちは必死に戦っている。いつだって可愛くいたいかもしれない。だけど「クズ」「ババア」「ブス」を連呼して、ひとりの人のために、そして自分のために戦う彼女たちはとても可愛い存在に思えた。
そしてそこにあるのが女の子のリアルだと思えるドラマだった。
映画/溺れるナイフ
この間久しぶりに友人と映画へ行った。
仕事が忙しいこともあって、映画へ行くことも、友人と会うこと自体も久しぶりだった。どれくらい疲れていたかというと、映画が始まる前始まる「紙兎ロペ」だとかキャラクターバトルクラブの「MC FAMILY」に声を出して笑い始めるくらいだった。相当疲れてる。
そんな私たちがみたのは「溺れるナイフ」だった。私は映画化が決まってから、すぐに漫画を買って全巻読んだ。(ミーハー)少女漫画だと思ってたから、ときめけたり青春感じられるのかなーなんて思って読んだら、甘かった。
どうしてこんなに苦しいんだろう、そしてどうしてこの二人はこんなにきついんだろう。とにかくきつかった。
かっこいいから好きだとか、可愛いから気になるだとか、そういう感覚ではない。悔しくて、負けたくなくて、そして鬱陶しい。だけど一番刺激的。そういう関係のコウちゃんと夏芽。
田舎町に越してきた、元モデルの美少女・夏芽(小松菜奈)は特別だった。そしてその田舎町で「神さん」として祭り上げられるコウちゃん(菅田将暉)もまた特別。二人は当然のように惹かれあい、そして皆が彼らを眩しく見ていた。彼らと自分は住む世界が違うから。どこかで聞いたようなセリフだが、そうなのだ。
その様子がこの映画ではすごく綺麗に描かれていた。田舎の風景には明らかにもマッチしない夏芽とコウちゃんの美しさ。彼らはとても眩しく、違う世界に生きていた。そして、お互い切磋琢磨する関係にある、夏芽とコウちゃんはどちらかがダメになると、共倒れしてしまう。だから彼らはどこかふわふわしていて危なかしく儚げである。
大友(重岡大毅)とカナ(上白石萌音)は、コウちゃんと夏芽の友人役としてでてくるが、彼らはとても自然に田舎町で息をしていた。カナは高校生になった途端に垢抜け、可愛い女の子になる。大友は眉毛を整えて、色気付き始める。だけど彼らは、コウちゃんたちの世界へは行けない。彼らは地に足をつけて、未来を見据えて立っている。
夏芽とコウちゃんは大友たちから見ると、眩しく羨ましい。二人を応援したいというファン心理のようなものを感じられた。怒鳴ったり叫んだり走ったりと少しオーバーでうるさい二人だが、それすらもどこか眩しい青春にも見えた。
そんな夏芽とコウちゃんは、ある事件をきっかけに崩れ始めるが、その辺りがどうも真実味にかけていた。もっとあそこは丁寧にしてほしかったし、前半がすごくよかった分、後半に物足りなさや無理やりのこじつけを感じた。
ラストも衝撃的で、そこはもっとちゃんとやるべきなのに…!!
原作が長い分、まとめるのが大変だったんだろうなぁ…。
私が大好きな最終巻のコウちゃんのセリフ。
これはこのまま使って欲しかった。
「ずっとずっと見ちょるけぇ
俺の願いはよう おまえがその武器で天下取るの見ることじゃあ
おまえはよう 俺の衝撃じゃけぇの
はじめて会うたときからずっとー
どがぁこつあっても、おまえがなにしようと
大人んなって 立場が変わっても
俺は一生おまえの味方じゃけぇ
好きに生きてよぉ
一生俺をざわつかせてくれぇや!」
心がざわついて息もできない感覚。そんな恋をしたことがある人はどのくらいいるんだろう。婚活や合コンに婚活アプリ。
人は、好きになろうと努力して好きになり、そして結婚生活は頑張って続ける。『逃げ恥』でも同じようなことを言っていたが、それが現状。
そんな稀有な恋愛をしているからこそ、彼らはとても眩しくうつるんだろうと感じました。
とにかく映像が綺麗で、アドリブ芝居もすごくよかった。大友くんがなんども噛み倒してますが、それもまた純朴さが伝わってよかったな。
北川悦吏子ドラマ「運命に、似た恋」
最近、「運命に、似た恋」がNHKで放送されていたけど、私はそれをニヤニヤしながら見てた。
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それは、斎藤工がかっこいいとかそういうトキメキのようなものではなくて、「北川悦吏子のドラマだなぁ」と思ってニヤニヤしてしまっていた。私は昔から北川悦吏子ドラマが大好きで、シナリオ本もほとんど全部何度も読んだ。その時、ふと気がついた。
「このドラマのヒロインになりたい」
そう思っていたことに。それこそが北川ドラマの醍醐味だった。ここで注目したいのは、ヒロインそのものになりたいわけではないこと。そのポジションに自分が入れ替わりたいということだ。卑屈っぽくてイジイジと悩んでいる自信なさげなヒロインたちは、憧れの対象ではない。あくまでそのボジションに「憧れ、恋し、願う」こと。視聴者が、北川ドラマの世界観に憧れ、自らをヒロインに投影し、そして恋をする。そうすることで、「私もこうなりたい」という感情が自分の中に湧き出てくる。
「ビューティフルライフ」を観た時、図書館司書に憧れ、青山の美容師に恋をした。
「オレンジデイズ」を観た時、大学にさえ入れれば、男女混合グループに属して海に花火にとイベント三昧の大学生活を送るものだと楽しみにしていた。
だけどそれはドラマだけの世界であり、私は図書館司書にはなってないし、青山の美容師に髪を切ってもらってはいるが彼とどうこうなるはずもなく連絡先も知らない。大学では少人数の女子グループでダラダラ遊んでいた。これが現実である。だけど、また私は北川ドラマで夢を見ることになる。トレンディドラマの最後に登場した脚本家なだけに、その名残はやはり残っている。「キラキラ」している、といった方がわかりやすいか。
『女の子が、恋をすることで自信が出て、キラキラする。』
これが北川ドラマそのものだ。では北川ドラマの恋ってなんだろう。そのことについてまとめてみることにした。
①彼(彼女)とは住むせかいが違う
「運命に、似た恋」を見て、感じたのは主人公はいくつになっても女の子であるということだ。富裕層向けの配達クリーニング屋で生計を立てるシングルマザー桜井香澄は高校生の息子がいる。そしておまけに若い女性と再婚したにも関わらず、お金を貪りに来る別れた旦那まで。香澄には、幼い頃であった運命の人がいる。名前はアムロ。もちろん偽名だが、香澄は彼と再会を果たすべく、母の遺品であるバレッタを渡していた。
「信号は黄色で、それが私の人生。どっちつかずでパッとしなくて。」
パッとしない香澄は、あくせく働き続ける。そしてユーリと出会う。彼は超一流デザイナーでしかもイケメン。そして彼に何度も「運命の人」とか「お姫様」とか言われ、求愛されることになる。
「あなた、僕の運命の人なんで」
だけど、香澄はなかなか振り向かない。もちろんユーリはかっこいいし、幸せこの上ない。だけど振り向かないのは、「彼と住む世界が違う」から。
「私がもっと若くて、もっと綺麗だったら、君に届いたかな?そういうことでもないな。世界が違うもんな」
これこそ北川ドラマのキーワードだ。北川ドラマで恋をする男女が悩むところ。「私は(僕は)、彼(彼女)と住む世界が違う」から、恋をするのが臆病になる。
このストーリーだけ聞くと、いい年したおばさんが何やってんだよと思う人もいると思うが、それでいい。だってこの人は「女の子」だから。恋をすれば、女はいくつになっても「女の子」になることができるのだ。
私は、今回小説版を読んでからドラマを見た。順番が全く真逆にも感じるが、それでよかったと思えた。北川ドラマは、続きを気にして見たくないからだ。私は、このドラマを味わいたいんじゃなくて、「北川ドラマ」を味わいたいから。
②「そんな気持ち」になる。
そして、ここである。
「君といると私、みすぼらしい気持ちになる。同じような人といれば、そんな気持ちにならなくて済む」
これは香澄の4話でのセリフだが、どこかで聞き覚えがある…
「ビューティフルライフ」の杏子が言っていたのと同じようなセリフだ。杏子は、自分が車椅子であることにコンプレックスを抱いていた。まして、相手は誰もが憧れる青山のカリスマ(しかもイケメン)。杏子は、自分と同じ車椅子の男の人を選びそうになる。それは、「そんな気持ち」を味わいたくないからだ。
そして、 ここでいう、「そんな気持ち」こそ北川悦吏子の描く「恋」そのものだ。
「住む世界が違う人」を好きになり、相手と自分との違いを感じて、「そんな気持ち」を味わう。これが北川悦吏子の描く「恋」なのである。
ラストシーンの、キラキラ輝く海を寄り添って見ている二人を見て、これが「恋」だと思った。愛ではなく、恋だった。
女の子はいつまでも少女であり、 好きになった人は誰だって王子様のようにかっこいい。みすぼらしい少女は、恋をすることで誰でもシンデレラのようなお姫様になる。
ドラマの中でユーリが香澄にこう言い放った。
「俺、クリスマスのイルミネーションじゃないんだけど。
あなたが、夢見るための道具じゃないんだけど」
だけど私は思う。女の子がお姫様になれるのは、素敵な王子様がいるからだ。ユーリは香澄のクリスマスのイルミネーション。彼からしてみれば、たまったもんじゃないかもしれないが、女の子にとってはそれでいいのかもしれない。
最近は、恋愛ドラマが敬遠されがちだが、北川ドラマを見て久しぶりにこの感覚を思い出した。別に恥ずかしくなったっていいじゃん。ロマンチックで寒くなったっていいじゃん。
夢見てイタい自分になるような、テレビドラマがなくなってしまうのは、なんだか少し寂しい気がする。
ずっと少女を描き続けて欲しい。恋愛ドラマの神様として。
「少女は卒業しない」(朝井リョウ)
「これはドラマ向きじゃない」
正直そう思ってしまったのは、朝井リョウさんの作品が初めてだ。
そこに潜む言葉たちや表現が文字ではないと伝わらないからだ。
最初、小説を読んだ時、絶対女の人が書いていると思ってしまった。
そのくらい女の子の心理描写がうまく、そして可愛い文章を書くんだなぁとつくづく思った。
「少女は卒業しない」で描かれているのは少女が「さよなら」をする7つの物語。
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舞台は、廃校が決まった高校の卒業式。そこには7人が迎える、それぞれの卒業がある。物理的にも心理的も、少女たちは卒業してしまえば「あの頃」には戻れない。そして少女ではなく、女になろうとしている。
卒業式の朝、直前、最中、終了後、そして卒業ライブに最後の夜。少女たちは、違う場所へと旅立っていく。
私は高校の卒業式で過呼吸になる程泣いた。
それはただ単純に、「卒業したくなんかない!」という気持ちや「友達と離れたくない!」なんていう気持ちから泣いたわけではない。ただ、虚しくて悲しい気持ちだった。大学入試を控えていたからとか、ネガティブな気持ちではないのだが、とにかく泣きたかった。「離れるのが寂しい」から泣いてると思われていたが、それはきっと違う。卒業するという事実がとてつもなく嫌だった。なんだか胸の奥に”しこり”が残ったままだったのだ。その答えがこの小説の一文で見つかった気がした。
卒業式を終えた高校は、もう食べられてしまったケーキを包んでいたセロファンのようだ。
中身をすっぽりと奪われてしまって、力なくその場にうなだれているように見える。
「あ、これだ」と思った。中身を奪われてうなだれているのは、校舎だけではなく、私自身だった。「高校生」という肩書きをなくしてしまうことが怖かったのだ。高校生の頃の悩みなんて些細なもので、今考えるとあほらしい。数学のテストで良い点が取れない、好きな子に彼女ができた、なぜ私はこの人と付き合ってるんだろうとか。
高校生の頃、好きになった男の子がいたが、それはただ顔が好きだったからだ。あとは、いきなりのバスケブームに陥り、バスケ部の男の子と付き合ったけど、ブームが去るとともに好きな気持ちがなくなったとか。その程度のものだった。
だけどあの当時はすごく悩み、世界でいちばんの悪者になったような気分にもなったりしていた。私はただの少女だった。そして少女の世界はとても狭かった。その世界もいまは愛おしく感じる。
みんなで暑い暑い暑い暑いって言ってるのが、少し好きでした
それくらいしょうもない話を、ブーブー言い合って笑いあう、そんな時間でさえも今思えばとても愛おしい。
「高校生」という肩書き、そして少女であることを許されている環境から抜け出す時期が迫っている。自分が夢中になっていたことや、楽しいと感じていたことが、振り返ると幼稚でかっこ悪いことなのだと気がついてしまう。それが私は怖くて泣いたのだと思う。大学へ入るという目標を掲げて、ドラマのプロデューサーになるという大きな夢を持って、卒業することが怖かったのだ。大人にならなければいけない少女は、その場にうなだれるしかなかった。
高校の校舎に似合うものは、いつだってとってもかっこわるいものなのだ。
だけど私はそのかっこわるい少女を愛おしいと思える。
そして羨ましいと思える。かっこ悪くても、ダサくても、一生手に入らない感情を少女は持っているからだ。