「監獄のお姫さま」がおもしろい!クドカン脚本3つの理由
はじめに
「更正するぞー!」「更正!」
この掛け声ではじまるこのドラマ。
5人の罪を犯した”おばさん”たちのわちゃわちゃした復讐劇。
これがまた”不完全”犯罪すぎて笑えてくる。
誘拐するはずのこどもを間違えてしまったり、計画は穴だらけでめちゃくちゃだ。
でも「69番ねがいます!」と私もどこかで使いたくなるくらい、不謹慎だけど女子刑務所が楽しそうに見えてしまうのはクドカンの脚本だからだ。
このドラマがおもしろい理由は、そんなクドカン脚本の代表的なおもしろ要素をふんだんに含んでいるからだろう。
①登場人物があだ名
彼女たちは互いをあだ名で呼び合っている。
そのほかにも、「しゃぶ厨」や「大しゃぶ」「小しゃぶ」などいろいろなあだ名が出てくる。よくよく思い返すと、クドカンのドラマであだ名はもはや必須。
『木更津キャッツアイ』では、「ぶっさん」「バンビ」「マスター」「アニ」「うっちー」と主要登場人物が全員あだ名。
『うぬぼれ刑事』では主人公はずっと本名がわからず、「うぬぼれ」という名前のままだった。
『未来講師めぐる』では全員ではないものの途中からあだ名が定着してくる。そしてなにより地井武男が「徘徊じじい」と呼ばれていたのが爆笑だった。あとは江口秀夫を「エロビデオ」としたのはすごい天才的だった。もはやとんちだけど。
ほかにも、『流星の絆』ではあだ名として定着せずともツッコミとして「ぬれせんべい」や「かわいそ村の村長」などが出てきた。
『マンハッタンラブストーリー』では主人公の本名は最終話で明かされ、それまではずっと「マスター」と呼ばれていた。「ベッシー」や「えもやん」というもともとがあだ名で生活している人物も。そして登場人物は全員アルファベットで例えられていた。(これはあだ名なのかな…?)
とにかく何が言いたいかというと、ドラマの登場人物があだ名で呼び合っているのを見ると一気に高校のクラスメイトのように思えてくるっていうこと。
同じクラスで楽しそうにわちゃわちゃしている彼女たちを端から見ているような気持ちにさせられるのだ。
彼女たちのわちゃわちゃ感は増すし、そうすると一気に私たちは彼女たちが「羨ましく」なる。
私もそこに行って、何かあだ名で呼ばれたい・・・!
あだ名は、なんかそんな気持ちにさせられるパワーがある気がする。
②ドラマの中にテレビがある
これはすごい哲学チックな見出しになってしまったけど、単純な話です。
ドラマの中の登場人物が「テレビ番組」をみている、ということ。『監獄のお姫様』でも女子刑務所で見ていた「この恋は幻なんかじゃないはず、だって私は生きているから、神様ありがとう」というドラマが出てくる。そしてテレビドラマにきちんと続きがあるという、1作にして2作(いや、1.5作)楽しめるのも特徴!なんかお得!
そしてこのドラマでエキストラとして<女優>が女優デビューを果たした。それを見ていたのは<姫>だけだったけど、なんだかずっとネタで言っていた自分のあだ名が本当になるってちょっとすごい。少しじんとくるところだった。
ほかにも代表的なのは『マンハッタンラブストーリー』の「軽井沢まで迎えにいらっしゃい」。これはシナリオブックにも多分このシナリオがあった(はず)くらい、しっかり作り込まれていました。内容としては韓流ドラマと昼ドラと火曜サスペンスを足して割った感じ。
そして『11人もいる!』では、同じような家族を「ダイナミック一家」として放送していた。言ってしまえば「ビックダディ」なんだけど、自分たちと同じ家族をテレビで見て「なんか貧乏くせぇな」と笑っている姿がシュールだった。
ほかにも『未来講師めぐる』では「ちぃ散歩」をパロった「ぢぃ散歩」。ドラマではないし、登場人物が見ていたわけではないけど、これが不思議。
ドラマでは「めぐるのおじいさん」なのに「ぢぃ散歩」をしているときは「地井武男」。めぐるに会っても声すらかけずに番組を全うする。不思議な感覚だった。
1.5作味わえるみたいでお得だとは書いたが、なにより自分たちと近い位置にいる、というのが一番の魅力だ。テレビドラマの中の人物たちがテレビを見ている。わたしたちと同じように、テレビドラマを見ている。わたしたちが見ているテレビドラマの登場人物たちがテレビドラマを見ている…なんかごっちゃになってきた。
「現実にありそうで、ない」これがテレビドラマだと思っているので、これはまさにその通り。なんかこんなテレビありそうだけど、ない。なんかこんな人たちいそうだけど、いない。そういう絶妙な距離感を感じることができる。
③ファンタジーな「普通」
これが一番書きたかった!なにより、クドカンの脚本を私が好きな理由はここにあるから。このことをつぶやいたら見たことないくらいの「いいね」がきて、すごく嬉しかった。自分に「いいね」でした。
木更津キャッツアイのときは余命半年のぶっさんに「うざい」といい、
— ドラマ子 (@tvdraran) 2017年11月28日
流星の絆ときは「遺族が笑ったっていいじゃん」といい、
今回は監獄者に「同情してるわけじゃない」と獄中交際を申し込む。
こういうのクドカンらしくていいなぁ。#監獄のお姫さま
『木更津キャッツアイ』は、簡単にいうと【主人公が余命半年で余生をどう生きるか】というドラマ。なんだかこれだけを聞くと、重くて暗くて涙なしでは見れないドラマのように思えてくる。
でもここで彼の仲間たちはぶっさんを【余命半年】として扱わない。ビールで乾杯もするし、無茶させるし、「うざい」だの「あ、でもその頃にはぶっさんいねーな」といってしまうくらいの無神経ぶり。
でもこれこそがぶっさんのもとめていた「普通」の生活。でも、彼らはあえて「普通」を全うしていた。そりゃそうだ。友達が余命半年で、普通に接してくれよなんて無理な話だ。『ワールドシリーズ』で彼らはぶっさんに「ばいばい」したけど、それまでやっぱり無理をしてハイテンションだったのかもしれない。だけど彼らは「普通」を提供してきた。この優しさこそ、ファンタジーな普通だと思う。
『流星の絆』だって【兄妹が親を殺した犯人に復讐する】話なわけだけど、AVだって見るし、合コンも行くし、ナンパだってする。
遺族が笑ったっていいじゃん!
女ひっかけたっていいじゃん!
普通のやつらと何が違うんだよ!
親殺されたか殺されてないかの違いだろ!?
いつまで遺族なんだよ!
いつまで遺族って言われなきゃなんねーんだよ!
この泰輔のセリフは本当に名セリフだ。彼らはずっと「普通」を求め続けている。復讐をしていないときは、「普通」に生きている。
そして今回の『監獄のお姫様』では、馬場カヨは獄中結婚ならぬ獄中交際を検事に申し込まれる。バラの花束を持って。
自分、同情してるわけじゃありませんから。
なんとも思ってませんから。
会うたび印象違うんで。刑務所くるたびにウキウキするっていうか。
刑期を聞いて「なげー!!!」と言っちゃうあたりが笑える。ただ「普通」に交際を申し込んでいるんだとわかる。
馬場カヨは面会という言葉にウキウキするし、検事は刑務所くるたびにウキウキしてる。こんなの普通じゃないよ!と突っ込むところなのかもしれないけど、これこそファンタジーな「普通」!こういう普通があったっていいじゃん!
勇介を獄中で育てていたときも、彼女たちはそこでは「普通」の女でいられた。
「普通」の日常を送ることをもう許されなくなった彼女たちにとって、それはもうファンタジーでしかない。
「普通」ってなんなのか、クドカンはずっとその質問について考えているような気がする。
おわりに
あとこのドラマで新しく取り入れた要素としては、
- 過去と現在が同時進行
- ほとんどワンシチュエーション
- メイン登場人物が全員女
っていうところな気がします。「ご飯の歌」とか「ざんげ体操」とか歌を作るところもクドカン脚本だなって思った…けど書いてないや。『ぼくの魔法使い』の「こーきっちゃん♪」とか『うぬぼれ刑事』の「うぬぼれ刑事のテーマ」とか。
『木更津キャッツアイ』の「赤い橋の伝説」は普通に泣けるいい歌詞だったけど、他は結構ふざけてたり不謹慎だったりでクドカンらしくていいですよね。
偉そうなことをつらつら書いていたけど、結局はこのドラマ最高に面白いよねってことが伝われば嬉しいです。
来週も楽しみ。