「痛い」ドラマー「東京タラレバ娘」ー
平成が終わろうとしている。
「平成生まれなんです」
私はこのワードを武器にしてきた。
平成生まれなんだと言うと、「平成生まれがきちゃったよ」と言われ驚かれた。
その度に、自分は若いんだなぁ…なんて思っていた。
そしていつからか私にとってこのワードは、かなり大切なお守りになっていた。
私は平成元年生まれ。つまり、昭和と隣り合わせにいる。
1年遅けりゃ、昭和生まれだ。
昔はそんなの関係ないじゃんなんて思ってたけど、今はこの1年は大きいなと思える。
だって平成生まれなんですっていうと、まだ若いような気がするから。
そしてそんなしょうもないことにしがみついている「痛い」自分もいる。
自分が「女の子」でいられる猶予はいつまでなんだろう。
誰だって少しでもまだ「女の子」でいたい。
転んだら手を差し伸べて欲しい。
だから平成生まれにしがみついているのかもしれない。
もうそんなに若くないのに。
私は原作マンガを読んで、思ったのは「面白い」ではなく「胸が痛い」という感情だった。
楳図かずおのホラーよりホラーだ。
スプラッターで首が切られることより、
ひとりで死んでいくのかもしれないという身に迫る感覚と、
このまま女子会ばかりしていいのかという気持ちの方が怖い。
「変な旦那捕まえた」と笑い、
そして「婚活パーティーなんて行くほど落ちぶれてない」と馬鹿にしていた。
なんだかその様子はとてもリアルで、自分もそうなのかと思い知らされた。
でもこのドラマからは、その痛さがそこまで伝わってこない。
『独身、彼氏なし、仕事もイマイチなアラサーです…!
でも東京オリンピックまでに彼氏つくるぞ!』
的な、昔で言う「負け犬」女子奮闘記に思えた。
なんかそれって安っぽい。そしてなんかそれって楽しそう。
そこでイケメンが手を差し伸べてくれて、(しかも年下)
きっとラブラブになって、(そして円満破局的なことになって)
仕事もなんだかんだうまくいくんでしょ?
それって全然「痛く」ない。『anego』とか『きみはペット』みたいな、そんな楽しい話になっていいのかな。
マンガで、東村アキコさんが「タラレバ娘たちへの叱り」だとおっしゃっていたように、これは我々への「おしかり」なんです。
気がつけばいいんです。
タラレバ言ってる自分に、そして女の子ではない自分に。
気がついて傷ついて、そして悲しめばいいのです。
立ち上がれるかわからないけど、一緒にこの悲惨な状況を共有する、そんなドラマがあったっていい気がする。
威張ってベンチに座って、ユニフォームは着用して出る気は満々。
だけどいざバッターボックスに立ったら何もできない。
挙句の果てに戦力外通告。
でもそのあとにバッティングセンターに行って、球があたってよかったな、なんて話の展開は、ちょっと嫌だった。
そこは肩落として寒空の下、ひとりで帰るか、
賑わってる街の中で孤独を感じながら帰って欲しい!!!
あと変なCGもなくていい、話もセリフも面白いんだから。
ドラマで、きちんとゴールを見せてあげるっていうのは鉄則かもしれない。
でも私は、「痛み」をシェアして皆で痛い痛いって言い合う、
そんなドラマもありなんじゃないかなって思う。